昭和46年05月10日 朝の御理解



 御神誡 一、「物毎に時節を待たず苦をすること、物毎に時節を待たず苦をする事。」

 合楽で言われる成行きを大切にさして貰う、成行きを尊ばして貰うと言う事、其の事自体が神様の御心を御心として行こうと言う訳ですね。その成行きそのものが神様の御働きとして頂くのです。其処に時節を待つ事に成ると同時に、その時節が、所謂機が熟すると申します。成行きを大切にして行くと言う事は、そう云う順序を経たおかげの定石とでも申しますかね。と云う様なものが自ずと、頂けれる様になる。自分から自ずとおかげになって来ると云うおかげ、それを此処では教えておられるんだと思います。
 時節をちゃんと待っておれば、ちゃんとおかげが頂けれると、簡単にそう言うのじゃなくて、その時節を待って居る事は、是は信心辛抱のこと、只待っていると云うのでは無い、腕拱いて待っておると云うのではない、信心をさせて頂きながら時節を待つと言うのである。ですから辛抱させて頂く楽しみ、辛抱さして頂く喜び、所謂辛抱力を作ると言う事。その間に、時節を待つ間に、その間におかげは刻々進んでおる。
 おかげはおかげの方へ段々一歩一歩近付いておる。そのおかげと云うのは、私どもが願いもしていなかった程しのおかげ、言わば夢にも思わなかった程しのおかげと云うのがある訳です。そこでその物事に時節を待たず苦をする事と。ですから物事には必ず時節と言う事がある。その時節を待っておかげを受ける。私共が心急いでおりますと、どうしても本当の事が出来ませんですね。
 例えばバスならバスを待っておっても、余りに参りませんと、その「こげん来んごとあるなら歩こうか」と言うて歩きかかると、途中でバスが来ると言った様な事がありましょう。次の停留所に行きますと、また次のを待たにゃいかん、所謂手遅れ手遅れ手違い手違いと言う事になるのです。私はそう云う様な状態の人が沢山ありはしないかとこう思います。もうちょっと辛抱しときゃそのバスに乗れれるものを、待ち切れずに歩く其処でバスは停留所と停留所の間の処で又行き過ぎてしまう。
 もうこのバスの停留所に付いた時には、又次のバスを待たなければならん、そう云う業を繰返している様な人が沢山ある様に思う。私は其処ん所が辛抱信心だと思う。例えばバスならバスの停留所に待たせて頂いとる。成程待ち永い、早いが良いです。私ども願うおかげも矢張りおかげもそうです。けれどもいわゆる神様には神様の御都合がある。物事には時節が有る。時節を待たず苦をすると言う事はそう言う事なんである。待ち切れずに歩く様な私は事だとこう思う。苦をしておる。
 だから待っておる間を信心辛抱と言うのである。バスを待っておる間を、例えばお書物を読んでおるとか、ま女の方なら編みもの一つもしておくとかと、して居ると、もう一頁もう一頁と思うて読んでおるうちに、やはり待ち永い思いをせずに、やはり読んだものだけは身に付いて、勉強も出来て、バスに乗ることが出来る。いわゆる待っておる間に信心辛抱なんである。
 だからその辛抱すると言う事の楽しさ、辛抱すると云う事の幸をです、体験して行かなきゃいけん。辛抱すると言う事はこんなに尊い事だと云う体験を積んで行く時期だと。いわゆる修行の時期だと。何か人がおかげを頂いとりますのを見ると、もうじっとしては居られない、そんな気が致しますね。私もそんな体験があります。私が修行中の時分に、私が一番感じた事は、あの農家の方達の取り入れでしたね。
 取り入れの時期の早いのに驚きました。それは勿論、米、麦を取らせて頂くのに、半年から半年かかりましょうけれどもですね、人が取り入れをしよんなさると、もうあちらこの頃取り入れし御座ったが、もう取り入れし御座る様に見えるもんです。こちら辺りはまあ遅々として、何時おかげが頂けるやら分からんと云う様な修行の真最中です。けれども信心辛抱さして頂きよったらね、半年、半年で収穫される。
 その方達くらいな事ではない。それこそ盆と正月が一緒に来た様なおかげに成って来るのです。だから此処の所をですね。私は取り損なったり、頂き損なったりして、繰返し繰返し、何時迄たっても本当のおかげに成らないと云うのは、時節を待たずに慌てるからです。時節を待たず苦をする事。まあそう云う所を猿蟹合戦ですね、猿蟹合戦を見ますと、お猿が柿の種を持っておった。
 蟹がおにぎりを持っておる。其処でおにぎりと柿の種を交換する事になる。取り替える訳です。おにぎりはもう今食べられるのです。けれども蟹はそれだけ利口だった訳ですね。柿の種を播いて、其れこそ早く芽が出れ柿の種と言う訳ですね。芽が出たらそれを早く木がなれと言う訳です。木になったら早く実がなれと。いわばその云う時期時期を、待って育てて行った。ここ迄は私は良かったと思うですね。
 自分の食べるものも食べないで、そしていわゆる子供の為に残してやろうと云う訳です。さあいよいよ収穫の時が来た。実が稔った。その時に猿がやって来てから、自分が千切ってやろうと言うて、柿の木に登って自分だけが良い事をする。自分だけが食べる。そして投げて与えるのは青い柿ばかり。しまいには、その投げ柿で潰されてしまって、死んでしまうと云う訳です。中々理詰めが良い。
 中々具合良うやって行きなさる。一生懸命食べるものも食べん様にして働いて、子供の為に子供の為にと云うて、財産を残す。その財産のために命を落す。財産の為に子供が苦労する難儀をすると言った様な家が沢山有ります。ですから、其の事自体は、殊勝です。けれどもね其の事が、所謂信心辛抱でない。信心辛抱の私は有難さと云うか、楽しさと云う物をその時期待っている間に、身に付けて行かにゃならん。
 信心辛抱いわばさせて頂いとる間に、神様に喜んで頂く、いわば心の状態と云う物が育つのです。ですからおかげを受け切らない。おかげが思うように頂けていない。その時期にです、神様に喜んで頂く様な心の状態が、どんどん育って行くと、此処ん所を育てて行かない限り、例えば時節が参りまして、実が稔っても、その頂いたおかげのために、言わば蟹ではないですけれども、命を落す様な、命を落すと言う事は、おかげを頂いた事によって却っておかげを落す様な結果になるのです。
 ですからその機会に教えを良く頂き、心掛けの間違って居る事を正さして貰いね、改まなければならんところは改まっておくと云う信心辛抱が大事なんである。先日の総代会の時に、北野の秋山さんが、私が先日朝の御祈念をして居る時にこう云うお知らせを頂いたとこう言われる。特務機関と言う事を頂かれた。特務機関と云うのは、どういう仕事をするか、いわゆる昔の兵隊の色々な部門があります中に。」
 特別の機関所謂、特務機関と云うのがある、それは敵の様子を探って、そして友軍を戦いが、しよい様に、し良い様に誘導して行くと云う任務があると云うのが特務機関だそうです。私はそれを聞かせて頂いて、だからそう言う事じゃなかろう。特務機関と言うは特別の任務と、特別の努めとあります。だからね例えば今日、物事時節を待たず苦をする事。成程そこの辛抱が出来ておればです、必ず時節は到来する。
 人間は一生の中には、何回かは絶対幸運なチャンスがあると言う事だそうです。けれどもそれをようキャッチしきらない、頂き止めきらない人が多い、それを先程申しますように、バスを待って居る様なもので、時節を待ち切らずに歩こうとする。気が気じゃない、人が儲け出しよるのを見ると気が気じゃない、それで歩く事になる。そうすると歩いておる内に次の停留所に着かん迄に、もうバスは通り過ぎてしまう。
 途中で手を上げたっちゃ止まらん。次の停留所に行ったら又待たにゃならん。またイライラする。また歩くまた乗りそこなうと云う様にです、好運と言う事に恵まれんなりに一生を終わって行く人がどの位あるかもわからん。とうとう一生良か事は無かったと言うのである。あるのだけど乗り合わせんのである。そこで利口な人はそれこそ猿蟹合戦じゃないけれども、自分の食べるものも食べずして、柿の種と交換をする。
 そしてそれをなら播いたり育てたりして、芽が出た、木になった、そして実がなったと、いわゆる好運を射止めた訳である。けれどもです、それだけではその好運を射止めた。儲け出したおかげで例えて言うなら地位を得た。栄誉を得た。却ってそのために自分が命を落す様な、子供が難儀をする様な事だけしか出来ない。なぜだろうか、その辛抱しておる間にです、待っておる間に勉強してないからです。
 ただ辛抱しただけ、辛抱して次の車に乗り合わせただけなのである。その辛抱しておる間、時節が到来する迄を、私は信心辛抱の時期だと。言うなら勉強の時期だと。言うならば改まる所を、改まる、わからせて頂く所は分からせて頂いてのおかげを、その時期にこそ頂かなければならん。それをそこを、ただそこんところを勉強せずに、唯おかげだけを待っておったんでは、そのおかげのために又、必ずまたおかげを落す。
 それが人間です。その信心辛抱の間に私は力を受けとこう、徳を受けとこうと。其処でです、矢張り特務機関なんです。これはね銘々がね自覚しなければならない事だとこう思う。昨日ある教会の総代さんがお参りして見えて、九時頃から夕方の五時頃迄、ここで皆さんがお参りして来る方達が御理解を聞かれると、それを一緒に聞かれる。テープだけ五回も繰返し繰返し聞かせて頂いた。合楽の方達は幸せですなと。是を毎日毎日此の様にして頂いとられると言う話しですが。
 私は五回も繰返し繰返し頂く度んびに、それこそ其の教えが血肉になる思いで、今日は丁度日曜日休みで御座いましたからゆっくりさせて頂いた。以前に此処で信徒会があった時に私が最後に二十分ばかりお話しさせて頂いた挨拶させて頂いた。その先生が挨拶された事の中にあぁ合楽の信心は是だ、此処を頂かにゃと願っておったのが今日実現したと言う事である。「今日はゆっくりと朝から夕方まで、繰返し繰返しご理解を頂かして貰うて、血に肉になった思いが致します」と。
 昨日の御理解です。合楽の方達は幸せだと。私共はお話と云うのは大祭の時位しか頂かれん。ただ教典なら教典、新聞なら新聞をお読みになるだけだそうですね、そこの先生は。ですからお話と云うのがよう頂かれん。ここの場合には皆さんがこうして毎朝、ここにこうしてお参りをなさると、毎朝此の様にして御理解を頂く。けれどもですその御理解が頂くだけであったら同じ事ですよね、詳しゅうなっただけでは。
 その間に何を神様はわからせ様となさっておるのかと。言うなら皆さんがまだおかげ受けとると思われませんから、いわゆる神様が下さろうとするおかげなんですよ。ですからそのおかげを、言うなら時節をまっておられる訳なんです、その時節を待っておる間に、信心辛抱の喜び、信心辛抱の徳を身に付けるとこう言うのである。信心辛抱しとる間に、此の事もわからせて頂いた。
 此処も改まる事が出来たと言う事だけでなくてです、私には神様の願いと言う物が聞こえて来る様になるね。特別任務が私にはあるのだと。昨日帰りがけに他のお客さんもありますから表まで、私その方を送って出ましたらあの高い塔に書いてあります、世のお役に立たせて下さい」と素晴らしい言葉ですねと。世のお役に立とう世のお役に立とうと言う事は、随分何処でも言われるけれども。
 世のお役に立たせて下さいと言うのは初めて聞いた。あれは祈りである願いである、どうぞ世のお役に立ちたいと云う、いわゆる信心辛抱させて頂いとる間に、本当に神様に喜んで頂く氏子としてお取立てを頂こう、神様の手にも足にもならせて頂こう、どうぞ世のお役に立たせて下さいと言うのは、そう言う祈りなのだと言う訳なんです。その事をえらい感心して帰られました。皆さんもやはり毎日見てお出られる。
 そして皆さんも祈っておられるとも思う。世のお役に立ちたい、信心辛抱しておる間に、時節を待っておる間に。世のお役に立たせて頂きたいと云う祈りがです、お役に立たせて頂く、いわば様々な特別任務と言った様なものを、自分で自覚して其の事に精進させて頂かなければならんと思うんです。どうでしょうか皆さん自分がおかげを頂いた暁には、どう云う任務を果さして頂く事であろうか、またどう言う事を願っておるであろうか、そういうところが漠然として。
 よし時節が参りましておかげを受けましても、それは成程芽が出た、木になった実りになった、おかげを頂いても大したことはありません。悪う行くと頂いたおかげの為にまたおかげを落す様な結果しか生まれて参りません。皆さんだから此処んにきを、はっきりしとかにゃいかんですよ。先日日田の麻生さんが言っておられました。どうでも私がおかげを頂いた暁にはね、合楽の経済を一手に引き受けさせて頂く。
 ま此処まで言うならば経済部長にでもならして頂きたいと云う様な意味の事を言っとります。其処に自分の任務と言うものを、おぼろ気ながら感じとって行かれよる姿だと思うのです。私にだからその為におかげを頂かして下さい。私は秋山さんがです、「特務機関」と頂かれたのは、特別の務め、まあ秋山さんで言うなら、此処の総代をなさっておられる、特別の任務である。
 その総代としての本当の御用が出来ておるか、特別の言うならば総代としての御用がどの様な事であるか。けれども現在では、総代としての言うならば、御用が出来ておるとは思われない。其処でそこん所を研究して行かねばならん。検討して行かねばならん。総代としてはどう云う御用をさして頂かねばならないか。為にはやはり力が必要なのである。だからどうぞ力を与えて下さい。
 いわゆる時節を待たせて頂いとる間に力を頂き、その頂いた暁にはです、総代としてはどの様な御用にでも、それに逓信出来るだけの覚悟と云う物をを作っておけよと言う事なのです。ただベンベンと、何十年間総代しとりますと言うだけじゃ、私は大した事は無いと。だから皆さんが、一人一人がおかげを頂いた暁の事をです、思わなきゃばならん、願わなければならん。
 唯おかげを頂かして下さい、頂かして下さい、成程おかげを下さる。まあ時節を待って成行きを大事にして行きなさい、おかげは必ず到来する。けれども到来したそのおかげの為に、おかげを落さんで済むことの為に、信心辛抱の徳を身に付けとけと言う事である。同時に自分にかけられた神様の願いと云う物をです、はっきりしておかねばならない、私は合楽全体の上にです。
 昨日その方が、いわゆる参って見えた方が言われるのです、ここでずっと御理解を頂いとられると、もう次から次と、昨日は日曜でも御座いましたので、お参りが引き続いておりました。「合楽だけはどうしてこの様にお参りがあるでしょうか。私どもの教会とどこか違えばこの様に違うでしょうか」と言うて質問されるのです。丁度高芝さんがお参りし合わせなさいまして、それはもう実に極端な返事でした。
 「この人はもう自分のほんな、吾が思うた事ばっかりそげん言うちから」と私が言う様に言っておられましたけど、あながち高芝さんの言っておられる事は嘘じゃないと思うた。「此処の神様はですの、生きて御座るけんですの」この頃から宇田さんが来てから言わっしゃった。「どこの教会に行ったちゃ神様は死んで御座る、だからいくら信者がガタバタしたっちゃおかげは頂かん。
 合楽に来ると神様が生きて御座る」是は平田さんの言だと、高芝さん言うとられます。だから私どもは幸い生きた神様を頂いておる。成程その気になって打ち向かえば、本当に一分一厘の間違いのない働きの中に、日々を過ごすことが出来る。有難い日々を過ごす事が出来る。その有難い日々を過ごさして頂いて、言わば神様が下さろうとするおかげ。私どもの願いが成就するのでない、神様の願いが成就する事の為に、私どもが時節を待っておる。そう言うおかげを頂かせて頂いた暁にです。
 私共が特別合楽にかけられる願いとでも申しましょうか、それを私は自覚させて頂いておる。合楽教会は愈々おかげを頂かして貰うて、愈々神様の御喜び頂けれる、世の御役に立たして貰う、愈々和賀心時代が創造される。そう言う展開が起きて来る、原動力ともならして頂こうと云う願いを、まあ持っている訳であります。皆さま一人一人にやはり神様の願いがある。だからその願いを聞かせて貰う信心。
 所が辛抱はしておるけれども、成程時節は待っておるけれども、その辺の所が一つもはっきりしてない、そのままおかげにゴールイン致しました所でです、そのおかげの為におかげを落す結果にしかならないという風に今日は申しました。秋山さんが頂いておられる特別任務、私どもは特務機関、いよいよ神様が充二分にお働き掛けが世の中にお出来になる様にです、その神様の手にも足にもならして頂こうと。
 そのために力を下さい、その為におかげを下さいと言う、私は信心でなからなければいけん。皆さん其処ん所を本当にはっきりなさらんとですね、頂いても頂いた事が頂いた事にならんのですよ。物事時節を待たず苦をする事と、それは先程から申しました。バスに乗ろうと思うけれども、待ち永い、そこで歩く。また乗り遅れる。そういう手違い手違いと云う様な、私は状態の時には、いよいよ心を落着けて、信心辛抱の徳を身につけて行かねばならない。そして時節を待っておかげを受けよう。
 だから受けようだけではいけない、それを猿蟹合戦のそれで申しました。成程食べるものも食べずに辛抱した、そして実は稔ったけれども、実った事の為にまた命までも落して行かなければいけなかった。そう言う事でも詰まらない。そこで私どもは辛抱しておる間に、徳を受け、力を受け、その力をどの様にか神様が喜んで下さるそのことに、行じさせて頂く事を楽しむ、またはそれを願いとして信心を進めて行かなければならん。信心にシャンとその様な筋金が入って来なければいけないと思うですよね。
   どうぞ。